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勝山三山のハイキング

ページID:0004388 更新日:2021年11月29日更新 印刷ページ表示

勝山の象徴、勝山三山(青山・勝山・四王司山)を歩いて見ましょう

1.勝山三山(青山・勝山・四王司山)の山城と勝山御殿跡

勝山三山写真
勝山三山(青山・勝山・四王司山)

 勝山地区、砂子多川上流にある勝山三山、青山、勝山、四王司山は、麓にある勝山御殿跡より、1時間前後で登れ、山頂からは、瀬戸内海、響灘を見渡せるハイキングコースとして絶好です。勝山三山には、地域の歴史を物語る中世の山城が築かれています。勝山御殿跡は、勝山三山を背後に控えた要害の地にあり、幕末、攘夷戦の難を避けた長府毛利藩の館跡として歴史を留めています。四つの歴史を訪ねてみませんか。

2.青山(288メートル)

青山写真
青山(288メートル)

 形が富士山に似ているため、「長門富士」の別名がある。古名は「形山」。頂上付近には、郭、石垣、竪堀などの遺構が残っている。「防長古城史」によると、青山城主、高森正倫(まさとも)と勝山城主、内藤興盛が不和となり、勝山青山合戦が起こった。
大永7年(1527年)10月、青山勢には、津原善勝、津田興輝が加勢し、一万二千の軍勢で勝山城を取りまいたが、勝山勢は大内氏の援軍を得て、三万五千の軍勢で、逆襲に転じ青山の城を四方から攻め、一刻にしてこれを落とした。青山勢は残らず討死し、その遺骸は里人により丁重に葬られたという。勝山地区の各所に残る中世墓は、この合戦時のものと伝えられており、人々は「青山くずれ」と呼んで今も大切に供養している。

3.勝山(361メートル)

勝山の写真
勝山(361メートル)

 勝山村(明治31年)の地名の由来となった山。頂上周辺は絶壁で要害の地。付近に山城の遺構である郭(くるわ)や櫓(やぐら)跡がある。大永元年(1521年)から大内家の重臣、内藤興盛が九州に対する備えとして在城した。
弘治3年(1557年)3月、毛利元就に追われた大内義長が山口を棄て、内藤隆世とともに籠城した。毛利軍は攻略に手間どったため、矢文を放ち降伏を促した。投降の勧告を受けた隆世は、主君義長の助命を請うため、一身に責を負い自刃した。義長は、直ちに下城し、長府の長福寺(現在の功山寺)に入ったが、毛利軍に攻められ自刃した。大内氏最期の山城。落城後、毛利元就が入江箸親を城番として置いた。

4.四王司山(392メートル)

四王司山の写真
四王司山(392メートル)

 清和天皇の貞観9年(867年)、新羅調伏のため、地勢高く賊境を見渡すこの山に長門国司が四王院を建立し、朝廷から下された四天王像を祀ったと伝わる。
 中世、この山で大内・厚東両氏の抗争がくり返された。正平6年(1351年)、厚東武村がこの山で大内弘世に敗れ自刃した。正平13年(1358年)、防長を統一した大内弘世が厚東義武に代わって長州守護職に任じられた。九州に逃れていた義武は、翌正平14年(1359年)、四王司山に拠って再び挙兵したが、敗れ、九州に逃れた。
 現在、山頂には四王司神社の祠に毘沙門天が祭られ、正月の”初寅まいり”は賑わう。山頂の東端にある展望台に立てば、瀬戸内海の眺めが素晴らしい。

5.勝山御殿跡「長府藩の館跡」

勝山御殿跡の写真
勝山御殿跡「長府藩の館跡」

 幕末、長府毛利藩が攘夷の戦難を避けるため、文久3年(1863年)6月28日、急きょ藩の館を長府外浦から田倉のこの地に移すため、起工し、わずか7か月で完成し、翌元治元年(1864年)2月1日、藩主毛利元周(もとかね)が入城した。
 「毛利家乗」によると「上下群議を尽くし、更に勝山の険に拠り古塁を増築せんことを謀る。藩内、士民男女喜びて金殻を献じ、力役に従い、その挙を助くるもの日に数百人」とある。
 この城内には、大小60余の部屋があり、御殿にふさわしい建築様式をもっていた。明治4年(1871年)廃藩置県にともない廃城となった。(平成31年2月、国の史跡に指定)

6.勝山三山ハイキングコース

青山城址の地図
勝山城址の地図
勝山御殿跡~青山~勝山~四王司山~

勝山御殿跡(縦走ハイキング 約3時間)

  • 勝山御殿跡~青山(約40分)
  • 勝山御殿跡~勝山(約50分)
  • 勝山御殿跡~四王司山(約50分)

資料提供 勝山三山を守る会 Tel 083-256-0882
事務局 下関市田倉508-2 原田方

遺構図の出典 向井一雄「長門の中世城郭」、「中世城郭研究第11号」より引用