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清末の歴史散策
歴史と史跡の町「清末」を多くの方々に散策していただくため、清末ふるさとまちづくり推進協議会が、「清末歴史散策ウォーキングマップ」を作成しています。
清末藩ゆかりの史跡などを、マップの一部を転載しご紹介します。是非お越しいただき、散策してはいかがですか。
高林寺
延宝6年(1678年)清末初代藩主毛利元知が、父秀元を祀るために建て、智門寺と称していました。後に高林寺と改め、清末毛利家代々の菩提寺とされました。山門以外は火災で焼失しましたが、山門は天和2年(1682年)建立時の姿で残り、当時の威容を示しています。尚、平成11年秋から平成13年3月にかけ、本格的な解体保存修理が行われ今見る姿に復元されています。特徴ある四脚の楼門造りで、下関市の有形文化財に指定されています。
毛利家墓地
高林寺境内の背後にあり、清末毛利藩主の初代元知から明治に至るまでの歴代藩主とその一族の墓があります。藩政時代の清末の歴史を語る遺物が少なくなった中で、貴重な史料といえます。
清末藩邸跡
東部中学校が建っている付近を陣屋といい、毛利藩主の館(やかた)のあったところです。承応2年(1653年)から幕末まで8代の藩政の中心でしたが、明治4年(1871年)の廃藩置県にともない、明治6年(1873年)に建物も土地も競売処分されました。民間に買い取られましたが、大戦中に軍用に接収され、戦後学校用地として下関市に払い下げられ、昭和22年(1947年)現在の東部中学校が開校しました。
内藤家の表門
内藤家は代々清末藩の首席家老でした。藩邸に近いこの屋敷は開藩当時のままのものです。母屋は改築されましたが、邸内の庭や棟塀及び表門は昔の風格を保っています。尚、表門は下関市指定の有形文化財に指定されています。
孝女「政」の碑(孝行塚)
文政年間に実在した角屋 政の孝行の美談を後世に伝えるため、明治7年3月の建立された。大正5年5月に「政」の遺徳を称え、孝子の道標としての意味あいから、ご老人の慰労会を開催して以来、「政」の命日(明治4年5月1日)にあたる、5月1日に敬老会を開催しています。清末地区敬老会の開催日の起源であるとともに、当時の教育理念を伺わせる由緒ある石碑です。
橋本家にある長屋門
この門は、藩邸の第一裏門だったと伝えられています。明治6年の藩邸処分の折に買い取られ移築されました。多少の改修はされていますが、鬼瓦をはじめ本体はそのままで数少ない旧藩邸の遺物です。
専念寺
寛文9年(1669年)清末藩当初の家老平野玄佐、荒廃していた光珠院を再興し寺領まで寄進し専念寺と改名されました。南北朝時代の作品の銅製鰐口は、藩政以前の清末の史料として大切な品で、下関市の有形文化財に指定されています。
清末八幡宮
建武年間に建てられたが荒廃していた。寛文2年(1662年)に清末初代藩主毛利元知が、藩の守護神として再建したものです。社域は安政4年(1857年)に8代藩主毛利元純(もとづみ)によって、現在のように整えられました。隣接している護国神社は、もと清末毛利歴代藩主の神霊を祭った社で、清栄(きよさか)神社と称していました。
阿内八幡宮
明治22年(1889年)に清末村と合併するまでは阿内村といい、その八幡宮です。この八幡宮の門は、清末藩邸の表門を移したもので、明治6年(1873年)の藩邸入札払い下げ目録で、建坪3.75坪・価格16円95銭とあります。また由緒書によると、文明3年(1471年)に宇佐八幡宮の分神を祭ったとなっています。