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王喜の移り変わり

ページID:0004415 更新日:2021年11月29日更新 印刷ページ表示

昔の王喜の絵

地形の移り変わり

昔の海岸線の図
​太い部分が昔の海岸線

 寛文8年、王喜開作が出来るまでは、宇津井村、松屋村は、木屋川河口の台地の上に散在している小村でした。​
王喜開作によって広大な水田が造成され、地形は一変しました。
​ 更に、昭和になって、松屋に飛行場が建設され、海岸や農地の形状も大きく変化しました。又、近年工領開作も造成されました。

行政の移り変わり

行政の移り変わりの画像1
​王喜村時代の役場

行政の移り変わりの画像2
​完成当時の下関市役所王喜支所
(王喜公民館)昭和48年

 中世の宇津井、松屋は、厚東、大内両氏が交互に領有したが、関が原合戦の後、防長二州に減封された毛利氏は、一門以下諸士に知行を分配したとき、林肥前守就里は、松屋及び宇津井の一部、計958石余を給領した。但し、居宅を松屋に構えたのではな<、家臣を派遣して支配させたのです。その後、林一門は給領地替えとなるが、その後は、萩本藩の支配地となり、吉田宰判の統治下に置かれました。但し、一部、家臣の給領地はありました。(松屋、宍戸領など)
 明治になって、行政上の変革が続きました。明治7年、大小区制の施行によって、両村は、第13大区第11小区と呼ばれるようになリました。
 しかしこれは、同12年に廃止され、郡役所が船木(ふなき)に置かれ、宇津井村、松屋村は厚狭郡内とされました。
 行政区としては、両村は同一に見られたが、合併したのではなく、村議会はそれぞれあったが、議会は両村連合の形で行われ、戸長は、連合戸長として1名で、戸長役場も、連合戸長役場として1個所でした。(山陽線、山角付近)
 明治22年、市町村制の施行により、両村は合併して一つの村となりました。県の示した村名は「松井村」でしたが、地元の要望(王喜開作の名をとって)により「王喜村」となりました。
 その後、町村合併促進法により昭和30年7月1日、下関市へ合併されました。

平成5年3月刊 「ふるさと王喜みてある記」より転載
王喜地区ふるさとまちづくり事業委員会