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王喜ぶらぶら 2 吉田堰と疎水

ページID:0004418 更新日:2021年11月29日更新 印刷ページ表示

吉田堰と水路の写真

 山並みが木屋川に迫り、山裾を川の流れが洗う村境よりやや北の川のなかに吉田堰が設られており、この堰より川岸に沿って数百mの疎水を大量の水が勢い良く王喜平野へと流れ出るのを見ることが出来ます。

 寛文8年(1668年)王喜開作の築立と同時に、この開作の用水確保のため8町歩余の小野溜池が築造されたが、この小野溜池と地区内の小溜池では王喜平野全域の用水確保は容易でなく、早魅とも成れば多くの耕地は枯渇して収穫皆無となり、水利を巡る争いは絶えることが無かった。

 王喜開作は堤防の外は木屋川であるが川の水位より開作が高<、此の川より水を引くには上流の吉田村入口付近から疎水で導入する他なく、疎水の建設が計られたが、大水の度毎に吉田の町は浸水する状況で、導入施設の建設が吉田の町への浸水を招くとの心配から協議が成立せず、吉田村との協定が成り堰が設けられて用水導入が実現したのは明治10年(1877年)であった。
 疎水の建設は、数百メートルに渉る苦難に満ちた戦いで一のみ一のみの鑿(のみ)の跡に当時の大庄屋以下関係農民等の苦労の程が偲ばれます。

 この可動堰は昭和41年(1966年)に建設されたものですが、2004年度に改修を完了しています。