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王喜ぶらぶら 8 立石
昔は、この道付近まで木屋川の河口がひろがり、潮が渦巻く海であった。
ここは津として使われ、その際に船のとも綱を繋ぐための石の柱が立っていた。これが「立石」であり、ここの地名の由来といわれている。
江戸時代、萩毛利藩が立石から白崎まで約3Kmの沖の海面を堤防で仕切り水田を作る工事「開作」を始めた。
それは難工事であったという。
寛文8年(1668年)王喜開作が完成、その後、里沖開作も完成し現在の広々とした水田になった。
この開作工事によって船着場がなくなり、無用となった立石は雑草の中に埋もれてしまっていたが、この場所から南東約30m、現在道路となっているところに残っていた。
この立石は二つに折れ、上半分をここに移した。下半分は道路に埋もれているため全体の長さはわからない。
立石の北側は、明治6年(1873年)松屋小学校が創設されたとき、分校が置かれた所である。