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水道事業の沿革を紹介します

ページID:0005621 更新日:2021年11月29日更新 印刷ページ表示

 下関市の水道事業の沿革を紹介します。

概要

 下関市は、本州の最西端に位置し、関門海峡を隔てて、九州と相対している。
 地勢は中国山地のつきるところで、大きな山岳や平地はなく、いたるところに丘陵が起伏し、海岸線に沿ったわずかな平地と、その背後の丘陵地帯に市街地が展開している。
 明治22年4月1日、わが国ではじめて市制が施行されたとき、山口県では、ただ一つの市“赤間関市”として発足した。(明治35年、市名を下関市と改称)
 市域には、大きな河川がないため、利水の便が悪く、衛生・防火と産業振興を図るうえから、上水道の布設は社会的要請の最大のものであった。
 明治24年10月、第2代市長石川良平氏は、市議会の承認を得て、当時、帝国大学工科大学衛生工学教師・内務省技師として招かれていたスコットランド人バルトン氏(William.K.Burton 1856~1899)の派遣を要請し、同年12月からバルトン氏一行の調査が開始された。その結果、豊浦郡内日村一の瀬(現在下関市大字内日上)が水源地として最適であると報告されたが、具体化するに至らなかった。
 その後、明治29年に水道調査委員会が組織され、大阪市水道工師長の瀧川釼二氏(工学士1868~1909)に委嘱し、さきのバルトン氏の調査報告書に基づき、実施設計書を作成するなど上水道布設への努力が続けられた。しかし、財源措置が障壁となり、上水道布設の認可を得たのは明治34年2月であった。
 同年3月、内日貯水池の築造から起工し、明治39年(1906)1月から市内の一部に待望の給水が開始され、同年3月予定工事の全部が完成した。この間、瀧川氏は工事長として工事を担当し、創設水道に尽力された。これは、岡山市に続く全国で9番目の近代水道の誕生であった。
 その後、編入・合併による市域の拡大と生活水準の向上や産業経済の発展に伴う水需要の増大に対応して、平成6年9月まで8期にわたる拡張事業を実施してきた。
 なお、平成6年度に策定した「下関市ふれっしゅ水道・21」基本計画に基づき、平成8年度から水道施設整備事業を推進してきたが、平成17年2月13日の平成大合併に伴い、旧市町の水道事業計画を精査し、平成18年度に同年度から平成35年度までの「下関市水道事業基本計画」を策定した。今後は、この計画に基づき、高水準の水道施設構築に向け、事業を推進していく。

創設(明治34年3月~明治39年3月)

 水源地を豊浦郡内日村一の瀬、給水の拠点を市内大字関後地村字トウセン(現在春日町)に選定し、明治34年3月から内日貯水池、高尾浄水場の建設に着手、明治39年3月に完成した。浄水場には緩速ろ過池3池、配水池2池を築造し、ここから市内へ給水が開始された。

第1期拡張事業(大正4年11月~大正5年5月)

 創設後8年を経過した大正3年の夏季に、高地で出水不良の状況があらわれはじめたため、理学士三田善太郎氏に委嘱して調査した結果、導水能力には若干の余裕があることが確認されたので、高尾浄水場に緩速ろ過池1池の増設を計画、大正4年11月に着工し、翌5年5月に完成した。

第2期拡張事業(大正9年8月~大正11年3月)

 さきの拡張事業で、緩速ろ過池を増設し給水の円滑を保ったが、その後の人口の増加に伴い、導水量が不足しはじめたため、大正8年9月、施設能力の総合的な見直しと将来計画の調査設計を九州帝国大学教授工学博士西田精氏に委嘱した。
 その結果、水源地流域内の雨量は、既設の貯水池に対し、なお相当の余裕があったため、別に一箇所の貯水池を増築し、市内日和山に浄水場を新設する計画が策定された。
 本事業は、当面する導水量の不足を緩和し、かつ、将来新設を予定している貯水池と浄水場間の導水を考慮した導水管の増設工事で、大正9年8月に着工し、同11年3月に完成した。

第3期拡張事業(大正14年11月~昭和4年2月)

 当時、本市は、西日本の交通の要衝として、また、屈指の漁港として市勢の進展は著しく、鉄道・船舶などへの給水量が増加し、施設能力の増強を迫られていた。
 このため、既設の貯水池の上流に、新規貯水池(内日第2貯水池)を築造し、この水源に対応する浄水場を市内日和山に新設して、この間を第2期拡張事業で布設した導水管に連絡する工事を大正14年11月に着工し、昭和4年2月に完成した。
 なお、本事業の完成で給水区域を高低2地区に分け、今回、新設した日和山浄水場は、市内高地部の給水を目的とし、給水の円滑化を図った。

第4期拡張事業(昭和9年4月~昭和10年10月)

 本事業は、水源対策と、昭和8年3月市域に編入された彦島町へ給水するため、計画された。
 すなわち、既存の貯水池流入量では、明治44年規模の渇水に遭遇すれば断水は必至であると予想されていたが、遂に昭和9年大旱ばつに遭遇し、実に70日余りにわたり制限給水の憂き目を見たのである。従来から、渇水事態に備える抜本的対策を検討してきたところであるが、今回は、一時的な措置として、昭和7~8年に調査した綾羅木川及び砂子多川からの取水実験結果に基づき、当面する水源不足の緩和を図った。
 これは、貯水池下流の綾羅木川及び砂子多川から、農業用水に支障をきたさないかんがい期間外に取水し、浄水場へ揚水し、ダム貯水量を温存しようとするもので、取水施設として綾羅木ポンプ所を築造、導水管を布設して高尾浄水場へ連絡した。
 また、彦島町への給水は、日和山浄水場から小門海峡の海底部を経由して配水管を布設するとともに、給水需要の時間的変化に備えて彦島町本村字後山に調整池1池を築造した。
 本事業は、昭和9年4月に着工し、翌10年10月に完成した。

第5期拡張事業(昭和15年6月~昭和28年3月)

 昭和12年長府町、川中村及び安岡町、同14年には小月町ほか4か村を編入するなど市勢は急激に発展し、綾羅木川水系のみでは増大する水需要に対応することができなくなったため、水源確保の抜本的対策を迫られていた。
 昭和14年、山口県が下関一円の水道用水・工業用水などの原水を供給する目的で計画し、翌15年8月に着工された木屋川河川総合開発事業に着目し、木屋川水系に水源を求めるため、同事業に歩調を合わせて拡張計画を策定した。
 すなわち、新たな水源に対する受水体制を確立するため、下関市大字豊浦村字下長坪に浄水場(現在の長府浄水場)を、下関市大字豊浦村字道祖峠に配水場(現在の長府配水場)を新設し、長府地区へ給水するとともに、新設の浄水場と日和山浄水場間を連絡して、市内給水の円滑化を図るもので、昭和15年6月に着工し、同28年3月に完成した。
 なお、山口県木屋川河川総合開発事業は、昭和30年3月全事業を完了した。本市は、この事業のうち、木屋川利水事業に参加し、1日108,000m3の原水を受水する権利を得たのである。

第6期拡張事業(昭和30年1月~昭和37年3月)

 本市は、第二次大戦中甚大な被害を受けたが、戦後の復興事業も順調に進み、産業経済の立直りとともに、水需要は急速に増大しつつあった。山口県営木屋川ダムの完成で原水は確保したが、水処理能力の不足が危惧されるため、浄水場の拡充整備を計画した。
 そこで、長府浄水場に、高速凝集沈殿池、急速ろ過池などの近代的施設を配備し、日和山浄水場に配水池を増設、長府浄水場から日和山浄水場への送水能力を増強させるため送水管を増設するとともに、住宅地として発展しつつある川中、安岡方面へ配水幹線を布設した。
 本事業は、昭和30年1月に着工し、同37年3月に完成した。

第7期拡張事業(昭和39年4月~昭和46年3月)

 水需要の増大に備えて、逐次、拡張事業を施行してきたが、本事業をもって、既存水源に対応した諸施設の配備を完了することとなった。
 木屋川から導水する一日108,000立方メートルのうち、一日106,000立方メートルを長府浄水場で処理(一日2,000立方メートルは小月浄水場)するため、県営木屋川ダム導水渠第5分水槽から長府浄水場間の導水管を増補改良するとともに、第6期拡張事業に引き続いて、高速凝集沈殿池、急速ろ過池などを増設した。また、山の田以北の北浦方面に対する安定給水を図るため、市内大学町に熊野配水場を新設した。このほか、綾羅木川水系から安定した導水量を得るため、内日貯水池から石原までの導水管の増径改良を行い、導水能力を一日22,000立方メートルとするなど、本事業は、既存水源の有効利用を図るため、昭和39年4月から諸施設の拡充整備を行い、同46年3月に完成した。

小月上水道

 小月上水道施設は、昭和6年12月小月村営水道として着工され、翌7年11月町制施行と同時に完成し、小月町営水道として発足したが、同14年に下関市に編入された。
 地下水を唯一の水源とする小月上水道給水区域は、その後の水需要の増大で水源不足が予想されるため、木屋川からの導水を目的とする第1期拡張事業を計画した。
 これは、本市が山口県木屋川工業用水道湯の原取水場から受水する一日108,000立方メートルのうち、一日2,000立方メートルを当該区域の給水に充てるもので、昭和38年4月に着工し、同42年3月に完成した。
 なお、下関市水道事業が昭和46年4月から着工する第8期拡張事業の計画給水区域内に当該区域を包含するため、同年3月、山口県知事の許可を得て、小月上水道事業を廃止した。

第8期拡張事業(昭和46年4月~平成6年9月)

 過去7回にわたり水需要の増大に対処して拡張事業などを行い、1日最大123,500立方メートルの給水能力を有する水道施設となったが、昭和40年代における社会経済の発展は著しく、産業経済活動の活発化、生活水準の向上に加えて給水区域の拡大など、水需要はますます増加する傾向にあり、新規水源の確保を迫られた。
 このため、山口県と共同で木屋川第2期利水事業として、当時の湯の原取水堰堤地点直下の木屋川本流に「新湯の原ダム」を建設して利水量の増加を図り、導水能力向上のため第1分水槽から長府浄水場まで導水管の新設が計画された。この事業による新規利水量は、当初一日80,000立方メートルを見込んだが、昭和54年度にいたり、河川維持流量確保のため、これが一日52,000立方メートルの開発に変更された。このうち一日30,000立方メートルは本市上水道用水として導水され、一日22,000立方メートルは本市における山口県営の工業用水として利用された。
 また、本市は取水量の増加に対応する浄・配水施設等の拡充整備も拡張事業として施行し、これの完成により、本市の水道施設は計画給水人口284,000人に対し、1人1日最大540リットル、1日最大153,500立方メートルの給水能力を有することとなった。
 本事業は、昭和46年3月認可を得て、同年4月から総事業費46億9,100万円をもって着工したが、その後、経済情勢の急変や事業内容の変更により、事業費の増額、施工年次の延伸を行い、昭和61年3月31日に第3回目の変更認可を得た。これにより市内高台地にある専用水道の統合、内日地区等未給水地区への給水及び六連島・吉田簡易水道の上水道への統合、新湯の原ダムの利水量一日30,000立方メートルから一日32,400立方メートルへの変更などを、総事業費243億4,309万円で、平成6年9月に完成した。

水道施設整備事業(平成8年4月~平成46年3月)

 創設以来、水需要の増大に対応して行ってきた8期にわたる拡張事業により、水道事業の基盤整備は、ほぼ充足したところである。
 しかし、ますます高度化、多様化する市民の要望に対応した、より信頼性の高い水道水を安定供給するため、施設の質的整備が課題となってきた。
 さらに、平成6年夏~平成7年春の渇水による減圧給水や阪神・淡路大震災を契機にライフラインとしての水道の重要性が再認識され、施設の安定性・安全性の更なる向上を図り、地震や渇水等に強い水道づくりを進めることもまた大きな課題となってきた。
 そこで、21世紀にふさわしい水道整備の長期目標として、平成5年度に「ふれっしゅ水道推進基本構想」、平成6年度に「下関市ふれっしゅ水道・21」基本計画を策定し、これに基づき平成8年度から水道施設整備事業に取り組んでいたが、平成17年2月の下関市と近隣豊浦郡4町との合併に伴い、それぞれの水道事業の事業計画を精査して、下関市水道事業基本計画を平成18年度に策定し事業を推進している。

第1期水道施設整備事業(平成8年度~平成12年度)

 未普及地域3地区(清末小野・畑組、王司員光)の供給開始、長府浄水場の粉末活性炭注入設備および次亜塩素酸ナトリウム注入設備の新設、配水量コントロール設備の設置、直結給水調査等を完了し、水系間連絡導水管新設の一部稼動(内日貯水池~長府浄水場間)を行った。

第2期水道施設整備事業(平成13年度~平成22年度)

 配水池の増強(竹生配水池・清末配水池・新椋野配水池築造)、内日第1貯水池取水塔内導水管布設替、水系間連絡導水管新設(石原~高尾浄水場間)、未普及地域(王司山田)の解消、椋野配水区の配水施設の整備を行った。

第3期水道施設整備事業以降(平成23年度~平成46年度)

 水系間連絡導水管新設(石原~高尾浄水場間:平成26年度完了)配水池の耐震化(長府3号配水場・彦島配水場・熊野配水場・長府1号配水場・長府2号配水場・長府4号配水場・高尾事務所)、基幹管路の耐震化(長府系・高尾系)、送水管布設(長府浄水場~高尾・日和山浄水場間)、楢原浄水場の更新を予定。また、引き続き長府浄水場の現地更新及び川棚浄水場の統廃合に向けた施設整備(安岡及び吉見ポンプ場の改修、一の瀬第二配水場の新設)を推進していく。

旧豊浦町

 豊浦町の水道は、公衆衛生の向上、生活環境の改善、また安定給水を目的に、昭和31年、湯玉簡易水道(給水人口1,300人、1日最大給水量195立方メートル)を創設し、その給水を開始したのがはじまりである。
 以後、昭和33年、室津簡易水道(人口1,500人、1日最大給水量225立方メートル)と小串簡易水道(給水人口4,500人、1日最大給水量640立方メートル)を創設、次いで昭和35年に川棚簡易水道(給水人口4,000人、1日最大給水量684立方メートル)を創設した。
 昭和30年代も半ばを迎えると町勢の発展もめざましく、水需要も増加の途をたどり、室津簡易水道にあっては水源不足に陥ることとなり、安定給水の確保が困難となってきた。
 これに対し豊浦町では、第1期拡張事業を実施し、昭和36年、新たに川棚室津水道を創設して川棚地区から室津地区への送水を開始することとした。
 一方、黒井地区においては、水道布設を求める住民の強い要望を受けて、昭和41年、黒井簡易水道(給水人口3,000人、1日最大給水量502立方メートル)を創設した。
 その後も豊浦町は、その地形、地質の条件もあって、川棚室津水道を除く3地区、すべての簡易水道は水源不足に悩まされた。
 このことから昭和42年、「豊浦町水道事業の設置に関する条例」を制定し、川棚室津水道に地方公営企業法の適用とともに、水源確保と給水の合理化を図った第2期拡張事業(計画年度 昭和42~45年度)を進捗させ、昭和43年には、小串簡易水道を川棚室津水道に統合して豊浦町上水道(給水人口11,500人、1日最大給水量3,312立方メートル)として設立した。
 黒井簡易水道についても、第3期拡張事業(計画年度 昭和48~51年度)を進めていくなかで昭和48年に豊浦町上水道に統合(給水人口18,000人、1日最大給水量6,300立方メートル)するとともに、川棚字定力4149-1他用地を取得のうえ浄水場を設置(浅井戸3基を増設)し、原水の確保と水質の向上とともに給水の安定を図った。
 遠隔地のため統合の遅れた湯玉簡易水道については、昭和53年、豊浦町上水道に統合し、給水人口の増加に伴って、川棚一の浜に新たに水源を確保して(昭和59年)水源不足改善対策を実施した。
 その後、町勢がますます進展するなか、給水人口の増加や生活環境の向上と共に水需要も急増し、慢性的な水源不足と合わせて夏季需要期の水源不足は増大して安定給水に困難をきたしたため、平成6年から下関市より日量600立方メートルを分水受給するに至ったが、平成17年2月13日より旧下関市水道事業、旧豊北町水道事業と統合し、下関市水道事業として事業を推進している。

旧豊北町

 豊北町は、町村合併促進法(昭和28年10月1日 法律第258号)を受けて、昭和30年4月1日、神玉村、角島村、神田村、阿川村、粟野村、滝部村、田耕村の7か村と宇賀村の一部の北宇賀と合併した。
 町内の水道については、合併以前の各村の集落ごとに簡易水道事業が営まれていたが、町村合併後は、この水道施設を引き継ぎ、豊北町が運営することとなった。
 また、本市は取水量の増加に対応する浄・配水施設等の拡充整備も拡張事業として施行し、これの完成により、本市の水道施設は計画給水人口284,000人に対し、1人1日最大540リットル、1日最大153,500立方メートルの給水能力を有することとなった。
 昭和41年には、粟野、角島、田耕及び二見地域を除く各地区の水道施設を結合し、粟野川沿いの伏流水を水源(現在の市の瀬水源地)として豊北町の上水道事業は開始した。
 なお、各地区の水道事業については、昭和31年12月15日に二見簡易水道、昭和45年8月1日に粟野簡易水道、昭和63年3月31日に田耕簡易水道と事業認可を得て、豊北町上水道事業については、昭和38年12月20日にその事業許可を受けている。
 以後、町勢の発展とともに増大する水需要に対応するため施設の拡張を迫られることとなったが、昭和47年には第1期拡張事業として市の瀬水源地を増強し水源の確保を図った。
 昭和52年には、小河内水源地の新設等第2期拡張事業を完成させ、海底送水管による本土から角島地区への給水を開始した。さらに昭和54年、粟野簡易水道における清水水源地の拡張を行ったほか、田耕大庭に水源を求めて田耕簡易水道を新設し、昭和57年3月20日には粟野簡易水道事業については上水道事業へ統合した。なお、角島地区への給水については、角島大橋の建設にあわせて、橋の内部に配水管を布設し、平成12年の橋の開通とともに当配水管による給水を開始している。
 平成15年4月には、残る二見簡易水道と田耕簡易水道を上水道に統合するに至ったが、これをもって町内各水道事業の一本化が実現し、以後、豊北町上水道事業として維持管理を進めていくこととなり、平成17年2月13日からは、旧下関市水道事業、旧豊浦町水道事業と統合して、下関市水道事業として、新たなスタートを迎えることとなった。

旧菊川町

菊川町簡易水道

 昭和41年5月1日に計画給水人口4,300人、計画1日最大給水量775立方メートルで、給水を開始した菊川町簡易水道の当初の給水区域は、田部、上大野、上田部、七見、下岡枝、上岡枝と吉賀の一部地域であったが、昭和52年、53年には緩速ろ過池 2池を含む浄水施設、容量760立方メートルの配水池 1池を増設し、さらに昭和56年には、木屋川表流水の取水口を増設するなど拡張事業を実施し、水源の確保と安定給水に努め、昭和58年までに台下、上保木、下大野、下保木地域に給水区域を拡大してきた。
 また、平成17年5月には、下大野地区に深井戸を設置のうえ緩速ろ過池 3池、浄水池 1池を増設し、施設の充実を図った。
 なお、平成20年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年3月上水道へ変更するための認可を得て、平成20年4月からは下関市菊川町地区水道事業となり、平成21年4月からは他の7簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

中山地区簡易水道

 東、西中山地区は、新湯の原ダムの改修に伴う周辺整備の一環として、同地区内深井戸2か所を水源とする計画給水人口200人、計画1日最大給水量50立方メートルをもって昭和58年5月1日、給水を開始した。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

楢崎地区簡易水道

 楢崎地区は、平成元年5月1日、計画給水人口1,190人、計画1日最大給水量512立方メートルをもって給水を開始したが、以後、平成11年3月には計画給水人口1,970人、計画1日最大給水量797立方メートルと事業の認可変更を経て、歌野浄水場の築造など施設の拡張を進め、給水区域を久野地区、貴飯地区まで拡大し、平成16年6月に給水を開始した。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

轡井・道市地区簡易水道

 轡井地区は、同地区内深井戸1か所を水源とする計画給水人口187人、計画1日最大給水量53立方メートルをもって平成7年5月1日、給水を開始した。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

旧豊田町

西市地区簡易水道

 明治22年の市町村制の実施により、豊田下村、豊田奥村(後の西市町)、豊田中村、豊田上村(後の殿居村)の4村が成立し、その後、豊田下村、西市町、豊田中村、殿居村が昭和29年に合併し豊田町となった。
 昭和26年当時の西市町の発展はめざましく、水道布設に対する住民からの要望が高まったことから、昭和29年10月の合併後に新町の建設計画に伴う主要事業として、昭和30年度にかけて、水源地を豊浦郡豊田町楢原(木屋川水系稲見川伏流水)に求め、供給の拠点を西市地区に選定、楢原に浄水場を設置して、昭和30年9月28日、事業認可を得て、昭和31年3月31日に施設の完成をみたことから、同年7月25日、西市地区簡易水道事業として町内への給水が開始された。
 以後、戸数の増加とともに水需要の増大を受けて、昭和39年から昭和45年度にかけて、送配水管の増設(矢田、山田、中村地区の一部と楢原地区)を行い、さらに昭和45年度、木屋川水系木屋川から取水を受けることとなり、併せて緩速ろ過池3号を築造した。
 昭和46年から昭和47年度においては、給水戸数も創設期の1.7倍となり、水道使用量も増加してきたことから、大幅な送配水管の増設工事を行った。また、新たに阿座上地区の一部、中村・高熊地区全域、殿敷地区の一部及び上殿敷地区の一部について送配水管の増設工事を行って給水区域が大幅に拡がることとなり、昭和47年度、浄水場内に緩速ろ過池 2池(4号、5号)を増築するとともに、高熊地区に配水池1池を築造した。
 昭和50年度においては、楢原浄水場の電気設備整備により自動操作化、場内配管及び事務室増築工事が完成し、昭和50年7月24日、楢原に管理事務所を移転したが、給水区域の拡大を受けて、翌年度には、同浄水場内に、新たに緩速ろ過池2池(6号、7号)を増設した。
 施設の老朽化によって、平成10年から平成14年度にかけては厚生労働省の補助事業を受けて、配水池の更新、電気計装設備の更新、管路の布設替え等を行ったが、引き続いて緩速ろ過池も老朽化によって漏水も生じることとなり、平成15年度から平成17年度にわたって防水工事と併せてろ過材入れ替え工事を行った。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

豊田西地区簡易水道

 水源地を豊浦郡豊田町楢原(木屋川水系木屋川より取水)、供給の拠点を豊田下、豊田中、殿居地区と広範囲を選定し、昭和61年3月14日、水道創設にかかる事業認可を得、楢原浄水場をその浄水場として、昭和61年度より平成10年度にかけて農村総合モデル事業の一環として施設整備を行った。本地区は、平成2年4月、豊田下地区(阿座上1)より給水を開始したが、浄水場に緩速ろ過池3池及び配水池1池を築造して、ここから年次を追って豊田下、豊田中、殿居地区内へ給水区域を拡大した。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

大河内地区簡易水道

 水源地を豊浦郡豊田町大河内(木屋川水系木屋川より取水)に求め、供給の拠点を大河内地区に選定し、平成元年6月21日、事業認可を得て、平成元年度より平成2年度にかけて施設整備を行った。大河内に浄水場を設置し、平成3年3月より給水開始したが、大河内浄水場には急速ろ過機1基、緩速ろ過池2池及び配水池1池を築造し、ここから地区内への給水を行った。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

三豊地区簡易水道

 平成7年度から平成9年度にかけて営農飲雑用水施設整備事業により、水源地を豊浦郡田町台(木屋川水計白根川支流より取水)、供給の拠点を台地区、今出地区、地吉地区の一部に選定し、平成8年5月29日の事業認可を受け、台地区に浄水場を設置、平成9年4月1日より給水を開始した。三豊浄水場には急速ろ過機1基、緩速ろ過池2池及び配水池1池を築造し、ここから三豊地区内へ給水を行った。
 なお、平成21年3月に簡易水道の廃止許可を受け、同年4月からは菊川町地区上水道及び他の6簡易水道とともに下関市水道事業に統合された。

簡易水道

吉見簡易水道

 吉見町は、本市の北西に位置し、大正11年10月豊西上村を吉見村と改称し、昭和14年5月本市に合併された。
 吉見地区への給水は、第6期拡張事業の起債枠制約を受けて進展しなかった。その間、赤痢伝染病が流行したため、急きょ簡易水道の布設により給水することとなった。
 計画は里町、西本町、新町、永田町一円を給水区域と定め、予定給水人口2,300人を目標とした。水源は西田川南側の隣接地に取水井を設けて地下水を取り入れ給水することとし、昭和31年12月16日着工し、昭和32年9月9日に完成した。
 昭和38年12月19日に簡易水道を廃止し、上水道に統合された。(総工費11,793,468円)

吉田簡易水道

 吉田地区は、本市の北北東の地点にあり、JR山陽本線小月駅から木屋川上流約4kmの位置にあたる。中心部には木屋川の支流、貞恒川が流れ、やや離れた周囲は山林がつづいている。古くは、山陰・山陽両道を結ぶ交通の要衝地点で、宿場町を形成していたが、時代の変遷とともに農家の多い集落となり、やや過疎現象を呈している。
 町村合併促進法施行に従い、昭和30年7月、本市に編入された。同地区の井戸水は水質が非常に悪く飲料に適さず、編入時から簡易水道の布設を住民は要望していたが、周囲の情勢により延び延びになっていた。
 昭和36年6月、貞恒川を水源とする簡易水道布設の認可を得、同年11月着工し、翌37年3月完成した。(総工費7,810,856円)
 昭和49年、錦町及び吉田地区の給水需要の増大に対応するため、吉田簡易水道拡張事業計画を策定、昭和49年9月事業経営変更認可を得、同年10月に着工し、翌50年3月完成した。(総工費39,955,000円)
 昭和61年2月、廃止許可を受け、同年3月上水道に統合するため認可を得、4月1日から統合された。

六連島簡易水道

 六連島は、下関漁港から北西8kmの響灘海上にあって、周囲4 km、南北1.2 kmの楕円形の島で面積70.3 ヘクタール、島峰は106mである。島には、入国検疫所、防衛庁施設、灯台等主要建造物が多く、関門港の西の玄関口として重要な地点に位置している。市営連絡船で結ばれ、本島は、花の栽培が主体である。
 昭和36年、離島振興法の適用を受けて以来、経済、生活基盤の整備が着々と進められていたが、懸案であった簡易水道は、昭和38年7月に布設の認可を得た。
 水源は島の西側斜面に湧出する水を配水池へポンプアップして、自然流下により給水することとし、同年12月着工し、翌39年7月完成した。(総工費6,875,010円)
 昭和50年、給水需要の増大と原水水質悪化に対処して六連島防衛施設周辺整備事業として、事業経営変更認可を得て、ポンプ井の拡張、導水管の布設替え、窒素除去装置等を昭和51年3月に完成した。(総工費14,355,008円)
 昭和55年、島内水源の枯渇と水質悪化に対応して、島外に水源を求めざるを得ない状態となり、離島振興事業の一環として昭和55年6月事業変更認可を得、本土上水道区域(竹の子島)から六連島間に口径75mmの海底送水管の布設工事を施行し、昭和56年3月に完成した。これにより、島内の計画給水量が60立方メートル/日から112立方メートル/日に増強された。(総工費275,114,000円)
 昭和61年2月、廃止許可を受け、同年3月上水道に統合するため認可を得、4月1日から統合された。

下関市蓋井島簡易水道

 蓋井島は、本市の北西に位置し、周囲13 km、面積232ヘクタール、島峰は251mであり、吉見漁港から距離14 km、連絡船の所要時間30分(52.6.1から市営渡船)で結ばれている。島民は主として漁業、従として農業を営んでいる。
 昭和29年8月、豊西村の一部編入により本市の区域となった。編入後、離島振興計画に基づき、電気導入、新鋭連絡船の建造等、年々整備がなされたが、給水設備については、昭和15年に設置された旧軍施設の配水池を利用するにとどまっていた。そのため、給水管腐食による漏水が多く、給水が可能な時間は1日僅か2時間程度で、しかも水源に雨水、汚水が混入する極めて非衛生的な状態であった。
 このため、島民の強い要望と、生活基盤の整備という見地から、昭和42年ボーリングによる水質、水量について調査を行い、翌43年9月認可を得、着工し、同年12月完成し給水を開始することとなった。(総工費6,381,743円)
 以後、昭和49年度に既設ボーリング箇所を堀井戸に改造し、昭和50年度に取水ポンプ1台の取替え、昭和51年度に予備のポンプの取替えを行い最大給水量1日70立方メートルを得、並びに第2水源調査としてボーリング及び揚水テストを行い、島内で必要とする水量の確認ができた。
 昭和53年度においては第2取水場の建設とともに浄水池及び送水管の増設を行い、20立方メートルの増強となり、最大給水量1日90立方メートルが可能となった。(総工費35,257,326円)
 なお、経理については、昭和61年4月1日から簡易水道事業会計より水道事業会計に統合し、処理されることになり、また平成17年2月13日の1市4町合併後、地方公営企業法非適用の下関市簡易水道と区別するため下関市蓋井島簡易水道事業に改めた。
 平成19年3月廃止許可を受け、同年3月上水道に統合するための許可を得て4月1日から下関市水道事業に統合された。
 その後、本土上水道給水区域(吉母)から蓋井島への蓋井島施設整備事業を推進し、送水管12,098m(うち海底部11,229m)の送水管布設工事を行った。平成20年11月20日に給水開始となり1日最大給水量が53立方メートルになった。これで、名目ともに下関市水道事業となった。(総工費962,900,000円)

下関市簡易水道

 平成17年2月13日の1市4町合併により、旧菊川町及び旧豊田町の8簡水を下関市簡易水道事業の設置等に関する条例に定めた。その後、下関市水道事業等の設置等に関する条例を改正、平成19年4月1日に8簡易水道すべてに地方公営企業法を適用し、平成20年4月1日には菊川町簡易水道を水道事業へ変更し、翌平成21年4月には残る7簡易水道とともにすべてを水道事業へ統合した。

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